2021年2月5日金曜日

『それから』夏目漱石


代助は、百合の
を眺めながら、部屋を掩オオう強い香の中に、残りなく自己を放擲した。彼はこの嗅覚の刺激のうちに、三千代の過去を分明に認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟の如く這い纏わっていた。彼はしばらくして、「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った


彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。その生命の裏にも表にも、欲得はなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうしてすべてが幸(ブリス)であった。だから凡てが美しかった。


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